tanayasu99(たなやす)です。
「岡部館跡」...石名坂周辺をGoogleマップで眺めていた時に、見つけた所です😀。深い知識はありませんが、お城が好きだったりします。...とはいえ茨城県、特に水戸以北では、天守閣を備えている城はおろか、城壁すら残っていない荒廃した城跡が多いです。それでも、山城に魅力を感じて、ゆるい散策で済む所には行ったりしています。
っで、「岡部館跡」も調べる限りは、駐車場はなさそうだが、自転車なら楽勝だな!と思い込み、さらに周辺の立ち寄り所を調べて行ってきたのでした😁。
常陸太田市 岡部館跡など
岡部館跡だけでは、ちょっと物足りないと思い、周辺の事を調べたら、参考になる資料が見つかったので、それをもとにクロスバイクで移動することにしました。もとはウォーキングコースとして紹介されていたので、自動車や原付バイクはもちろんNGだろうし、自転車ですらちょっと躊躇しそうでした😅。
各地点には駐車場がなく、自動車で巡らない方が良いです。ある場所では、原付・スクーターすら、無理だと思う程でした。
馬力神
馬の供養のために建てられたもの。農耕か軍事か、住民の足だったのか、分かりませんが、供養のために建てるぐらいなので、馬との密接な関係があったのでしょう。
Googleストリートビューで事前確認した映像とは、ちょっとだけ違いますな。おかげで、クロスバイクと合わせて撮影したいマンは簡単に発動できました😀。
あ、あれは、たぶん風神山に建つ...アンテナ?
色付いてるなぁ。
道幅:狭い、車1台分
斜度:急斜面
路面:舗装路(スリップ止めなのか、凸凹している)
不動尊と泉
通称お不動様。不動尊の泉が湧き出ていると言われ、水門、丹奈地区の用水として使用されてきた。泉が透きとおっていたのが、印象的でした。パッと見は、流れて入ってくる水がないので、本当に静かに湧き出ているのでしょう。
赤みがかった石😲。手に取るのは止めました。
水中でも元気そうですなぁ~。水草なのかな。
ちなみに、アメンボぐらいしか居ませんでした。
正面に回りたい!って思ったら、最初から見えていた部分が正面で、回ってみた所は側面だったという。
道幅:少し狭い、車1台分
斜度:急斜面からの平坦地
路面:綺麗な舗装路から砂利道
アンテナ塔
不動尊と泉の所から、坂道を登り切った所にあったアンテナ塔。...何者か分からず(NTTとかKDDIとか)。そんなことある?って思いつつ、次の目的地へ向かい続けたのでした。
不動尊
さっきの不動尊より、なんか立派です。これといって詳しい内容は見当たらず。石仏群かな。1つ1つ独特な形をしているので、それぞれ目的が異なるのでしょう。
ただのスタイリッシュな石かと思いきや、何か刻まれている。この段差がある面に!?
天下和順 南無阿弥陀佛...って刻まれているのかな。
南無をGoogle翻訳先生に任せると「amen」って返ってきます。また、どこかの記事には「I believe」なんだと。直訳すると、「阿弥陀仏を信じます」かと思いきや、そんなストレートに翻訳されなかった。
二十三夜塔。旧暦23日の月待の記念として、二十三夜講中によって造立された塔(wikipediaより)。
月待塔といわれ、日本の民間信仰とのこと。月待行事というのがあり、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜に、人が集まり、飲食し、経を読み月を拝み、悪霊を追い払うそうです。
...これも何かしら意味があるのだろうけど、難しくて、読み取る気になれず😥。右は幼子を抱えているようにも見える。
不動尊の右奥にあった...社?
道幅:狭すぎ、1~1.5人分ぐらい。
斜度:ほぼ平坦地
路面:舗装路からあぜ道(未舗装の農道って感じ)
鹿島神社と椎の木
鹿島神社...すいません、ここは椎の木(スダジイ)を楽しみにしていました😅。でっけー😲看板の内容を抜粋。
市指定文化財 鹿島神社の椎
昭和46年6月15日指定
幹周 10.03m
根元 11.80m
樹高 約15m
最大枝張り 約16m
推定樹齢 440年
平成20年3月 常陸太田市教育委員会
...昭和46年(1971年)時点で440年であれば、令和2年(2020年)の時点で489年...ですかね。
スダジイで思い出すのは、雨引観音のスダジイ(もっと身近にあったような気もしますが)。あんまり比較を考えたことが無いのでピンときませんが、雨引観音より大きいような気がします(参考までに雨引観音のスダジイ↓)。
比較するとこんな感じ↓。
鹿島神社。
不謹慎ながら、しめ縄が納豆みたいに見えてしまいました。
豆に見えた茶色の物体は「どんぐり」。糸のような物は、クモの糸。...。
鹿島神社造営記念碑。由来と造営修理の経緯が記されています。
...。
取捨水。
...。
社殿。
再び椎の木。
鳥居と比較して見るから大きいのかなぁって思いもありましたが、引いて見ても大きさを感じます。
道路への影響か、バランス取りなのか、太い枝を切ったんですね。
道幅:狭い、車1台分
斜度:ほぼ平坦地
路面:舗装路
弁天様
鹿島神社の末社。鹿島神社の御手洗い場として作ったという伝説もあり、池があるのだという。池には鯉が居ました。
実は、さきほどの鹿島神社右奥から山道を歩くと弁天様のところへ辿り着くようです。周辺の道を考えると、ちょっとした近道にもなっている。自転車では無理ですね、徒歩専用。
道幅:少し狭い、車1~1.5台分
斜度:ちょっと斜面
路面:舗装路
石仏群
昔から寒水石(大理石)の産出が盛んな地域の為か、石仏群も寒水石で出来ていると思われているそうな。パッと見、全然そんな感じはないんですが...磨けば光るってやつですかね。これまた、見慣れた文字から、見たことない文字もあったり。
右端の石には「大乗妙典塔」と刻まれており、「だいじょうみょうてんとう」と読むそうです。一般的に法華経(妙法蓮華経)のことを意味するようです。
とある大乗妙典塔の下には法華経の文字の書かれた小石が収められているんだとか。確かに、見に行った石仏群の前には小石が無造作に置いてありましたが、全然気にしていませんでした😅。
右から2番目の石には「庚申塔」ですかね。「庚」と「塔」だけはっきり見えたので。
今度は左から「馬力神」「馬頭観世音」「庚申塔」ですかね。
序盤でも、「馬力神」石はありましたが、ここら辺は馬と深い関わりがあったんですかねー。
道幅:少し狭い、車1~1.5台分
斜度:ほぼ平坦地
路面:舗装路
岡部館跡
石仏群から坂道を登ること、数分。出入口。Googleストリートビューで事前確認していたとおりです...。入口石碑は立派なのですが、軽自動車ですら行く気にならないぐらい狭いです😅。
説明板。「岡部館跡」「館の縄張りについて」「岡部氏とは(佐竹支族岡部氏)」「岡部氏略系図」という見出しで、それぞれ説明されている。
常陸太田市、岡部城跡で検索すると見かける幟(旗)は、横たわっていました。落葉に埋もれつつある。
幟が勇ましく立っていれば「史跡 岡部館 佐竹重綱(岡部五郎)」と佐竹家紋が見られたのだが残念。...もしかして、セルフで立てて良かったのかな。
分岐点。
せっかくなので、クロスバイクと合わせて撮影したいマン。
すこーし、ダウン→アップを歩いた先には、本日の目的地!!「岡部館跡」石碑に到着です😁。
予想はしていたけど、実物を目にすると、やっぱり大きい。
では、個別に撮影。
供養塔。
「史跡 岡部館跡」。
「佐竹(岡部)重綱と岡部館の碑」説明石碑。
石碑の裏側にも、濃厚な内容が刻まれているのは、ちょっと珍しい気がして、衝撃的でした。「わが祖佐竹氏に報恩の誠を捧ぐ」石碑。
...。
道幅:出入口だけ狭すぎ、車1台未満
斜度:アップダウンあり
路面:舗装路から砂利道と舗装路
最初の説明板から読み解く
佐竹5代目当主・義重の4男・重綱によって始まったとされる「岡部氏」。重綱は「岡部五郎」と号し、後に「義綱」と名乗った。つまり...。
佐竹重綱=岡部五郎=義綱
ということ。ちなみに、鬼佐竹・鬼義重で知られる「佐竹義重」は、戦国時代の人で佐竹19代目当主であり、別人です...ちょっと混乱したので。
1267年、重綱は、鎌倉幕府の将軍から「陸奥国菊田郡泉田郷岡部」を賜り、その地に城を築いた。そして、「岡部氏」を名乗ったと伝えられている。
泉田郷って...今でいう「いわき市」っぽいんですが...常陸太田市に何故「岡部館」があるの?って思う。もしかして、泉田郷岡部って、めちゃくちゃ広いのか...
調べてみると、どうやら「いわき市」の方に築城したというのが合っているみたい。いわき市にあったという「岡部城」の遺構を探索したような記事が、ネットでヒットします(毎度探索?散策?系の情報には助かっています😅)。
説明板の「岡部館跡」の内容に、「館の築城年代は不明であるが、戦国時代には存在していたと思われる」とあり、岡部氏の祖「重綱」が築城したわけではなさそうです。「館」のわりには、地形を巧みに活用し、要害堅固な城館というのが特徴的ともあり、他国との防衛または攻戦するための「支城」だったのかなぁっと想像する。
とまぁ、誰によって、いつ作られた館なのかは、分からないってことか🤔。誰が住んでいたか、籠っていたとか、何かエピソードがあっても良いと思うのですがねー。
おそらく、ココだろうと推測した、いわき市の「岡部城跡」と、常陸太田市の「岡部館跡」の直線距離を測定してみた。約56km...遠い。
説明板には、「岡部館」が誰によって、いつ作られたのか、不明なのか記さていないので、なんで常陸太田に岡部館があるの?と疑問というか興味が増すばかり...
もう少し調べていたら、「岡部城址碑」の存在を知ることができ、しかも、Googleストリートビューで確認することも出来た。思っていた場所とだいぶ違うが、まぁおそらく城の領域が広いので、碑が建っている所=城の中心地(館)とは限らないと思う。
くぅ...😣。さすがに説明石碑の文字は読み取れないか~...確認した画像の質では、もはやポーネグリフ😅。ちなみに「岡部城址碑」は篆書体(てんしょたい)ですかね。
「佐竹重綱(岡部五郎、義綱)は、現いわき市にある泉田町(陸奥国菊田郡泉田郷岡部)に、築城し、地名にちなんで、岡部氏を名乗った」ということですな。(たぶん違う気がする。)
石碑に刻まれた説明から読み解く
...さっきの説明板と微妙に違って、「重綱により、建長年間(1249~1255年)ごろ築かれし館なり」とあります😅。ざっくりは分かっていることになっています。重綱が、常陸太田市大森町岡部にあって、岡部五郎と称して、「岡部館」を本拠とし、鎌倉幕府に出仕していたとある。
幕府に仕える以前から、既に常陸太田市の「岡部館」に居たようですね。
その後、宗尊親王(むねたかしんのう)の計らいがあって、重綱は泉田郷の荘官に任ぜられ、泉田郷(いわき市)に入ったみたい。(将軍を辞めた後に、泉田郷を賜っていることになっているなぁ)。以後、そちらで岡部氏として、佐竹一族を支えつつ、勢力を増していったようです。
「佐竹重綱(岡部五郎、義綱)は、義重の命により、常陸太田市大森町岡部で岡部館を本拠とし、鎌倉幕府を支えた後、泉田郷を賜り、岡部城を築いた」ということですな。
なんだか、前後しすぎてて、訳分からなくなってきた(笑)。諸説あるってことか🤔。
その他
両方から読み取れる内容ですが、岡部一族がうまく受け継がれ、戦国時代では、子孫である重忠が、佐竹義宣 対 伊達政宗の戦闘(摺上原の戦い)に出陣している。また、徳川家康が会津上杉討伐の号令を発した時には、重忠とその長男重政、次男重春が泉田郷岡部城より上杉氏救援に向け出陣している。その途上で、関ヶ原の戦いが始まり、チーム重忠は、自分ちに戻ろうとするが、伊達政宗配下の軍勢に阻まれ、支城竹貫郷松川城に入り、政宗軍と激戦を展開するも、勝機に繋がらなかったのか、常陸大窪郷石川氏を頼り、大久保郷に寄寓(きぐう)したそうな。その後、再び岡部城に帰ること叶わず、重忠と重政は大久保郷に、重春は大沼郷に居たそうです。
しかも、重政は、大久保岡部氏の祖となり、重春は大沼岡部氏の祖となったみたい。
...この一族は、土着感が凄い😁。4男の重綱が岡部にいき、次男直義(義直、義尚)は那珂市額田に館を築いて「額田三郎」と称し、三男義高(義隆)は常陸太田市岡田で岡田四郎と名乗り、五男重氏は戸田出羽守中条氏の養子となっている。長男長義は佐竹第6代目当主となり...とあるので、勢力基盤を引き継いでいったのかな。
後記
今年の春頃に、佐竹義宣(よしのぶ)の本を読んだので、戦国時代ぐらいなら、なんとなーく分かるのですが、南北朝時代~鎌倉時代となるとね...もともと苦手なんです。説明板や石碑には、分かりそうな時代における事柄も書いてあったので、飽きる前に読みきりましたが😅。自転車で巡ってみて正解だったけど、大所帯で行くのは微妙ですね...多くても2人か、いても3人ぐらいが限界ですかね。「不動尊」がいちばんヤバい。狭い。それ以外は割と普通に狭いだけだと思いました。
少し急な坂道があるので、ちょっと注意ですかね。
...という、古き歴史を辿るような、サイクリングでした🚲。
おわり。
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