tanayasu99(たなやす)です。
前回の記事では「甲稲荷神社」に立ち寄った事を記しました。今回は、その後「旧久昌寺跡」に立ち寄ってみたという記事になります😁。
事前に調べて把握していた看板が新しくなっていて、少しビックリしてみたり...。位置をよく理解していなかったが「穴」を見つけたりと...小冒険でした😆。
常陸太田市 旧久昌寺跡
旧久昌寺跡(きゅう きゅうしょうじあと)。常陸太田市で車では行きにくい所を自転車で行ってみたいなぁって、Googleマップやストリートビューで眺めていたら見つけた所...だと思う😅。
山吹運動公園脇の道路から、山ノ寺に向かう感じ。通り道にはレビューが良い蕎麦屋さんがある。
新しくなっていた看板。
Googleストリートビューだと、こんな感じでした。
ちゃんとメンテナンスしているんでしょうねー😃。
しかし、この矢印「→」が、山の方(砂利道)を指していると思う人がどれだけいるのだろうかと、少し疑問ではありますが🤔。微妙な位置ではありますが、まだ「↑」の方が確信を持てそうな気がします。
ストリートビューと衛星写真での事前確認と、旧久昌寺跡・石碑の近くから撮影したであろう先人殿の写真から推定し、砂利道の先だろうと思っていたとおりで気分爽快😁。
「歴史の里ハイキングコースご案内」寺跡まで残り100m地点。
到着。「久昌寺遺蹟」の石碑です😁。
思ったより大きくて、分厚い石碑です。
「旧久昌寺跡」の説明板。
徳川光圀公の生母・谷久子が亡くなり、日蓮宗経王寺に埋葬された。十七回忌にあたり、お墓を一族の墓所である瑞龍山に移した。同じ年に経王寺を稲木村に移して、新たに「靖定山妙法華院久昌寺」と称した。...というのが始まりっぽいですね。
仏殿、法堂、位牌堂、多宝塔、方丈、食堂、鐘楼、山門、浴室などを備え、かなり広い敷地だったようです。また僧侶の学校・檀林が設けられ、最盛期には3000人もの僧が学んで居たんだと😳。
ところが、明治維新により荒れてしまったため、北東へ約700m離れた地にある末寺のひとつと合併し、明治3年に移転したんだそうな。え?明治維新=荒れる?どゆこと?🙄。別の情報を頼りにすると、「幕末の混乱期の影響を受けて荒廃した」とのこと。な、なるほど😐。
源氏川の方で見かける看板・現存する「久昌寺」かなぁ。確かに約700mでした(笑)
現存する久昌寺をちゃんと見たことがありませんでした。何度か、西山公園には行ったことがあるのですが、義公廟の階段下までしか行ったことがありません。
今回、そちらも行こうとしていたのですが、寺跡地周辺の散策時間を費やし過ぎたので、別の機会に行くことにしました。...(ぶっちゃけると、忘却しました😥)
先人殿の写真を見ると、説明板が変わっているようでした。
こんな感じの作りをした説明板↓。6本足の、屋根付き説明板だったらしい。
ちょっとした高台に石碑があり、そこからの眺めが良かったりする。
場所:茨城県常陸太田市稲木町
だいたい、こんな感じ。
穴
そういえば、ハイキングコースの入口が見当たらないぞ🤔。自転車だし、行く気は無いけど、参考までに見ておきたいって、看板を見た時から思っていました。一応、石碑より奥に続く道が気になり、確認してみたが、墓地だけ。桜っぽい木が印象的でした。山桜かな。
石碑に到達する前に、右クランクだったような...うろ覚え(笑)。
草木が生い茂る中、妙に開かれた領域が気になり進んでみました😐。
こっ、これは!!事前調査で見かけた写真に写っていた穴!!
何の意味があるのかよく分からずだったので、見に行こうとは思っていなかった所です😅。
右手前には何やら崩れたような岩。
岩に生えるかのような樹木。
天井は低いようで、低すぎないようにも見える...よしクロスバイクを押して歩いて抜けてみよう!!
(ちょっとだけ、ハイキングコースのことを忘れかけたが、これがコースなのかな。)
竹林がうっすら見えるのですが、日の傾き具合のせいか、出口が暗いです。逆に言えば出口が分かるぐらい短い。
コウモリは居ないけど、終始「ブーン」と声がしていました。まぁ、蜂みたいな虫でしたけど😥。
穴を抜け切り、ぁぁ...なるほどねぇー😀って独りで納得していました。これぞ、ハイキングコースですね!
日が傾き始めていたので、穴の向こうは輝いて見えたのでした...?
下り道。これは「山の寺」とか来た道に戻るルートです。
「隧道」「洞窟」「洞穴」とか言われており、個人的にはハイキングコースの通路って感じです。ちなみに岩穴を避けるように迂回するルートもありました(最初に見た穴口に向かって右側)。
さらに調べていたら、穴の写真と共に「通玄洞 黄門様御成り道のトンネル」という名称が記載されている記事を発見😲。が、しかし、それ以上の情報は見当たらず。
なんだこれミステリーのレベルじゃないなぁ、田中隊長・以下隊員の出番ですらないかとか思ったり🤣。ポンポン山ほどの説明板が無いから、そういう意味では、あっちよりはミステリーだと思います😁。
エンジニア・永田勘衛門(円水)の墓
次の目的地(久昌寺・水戸徳川家墓所とか)もあるし、どうしようかと思ったが、説明板だろうモノが見えていたので行ってみました😆。常陸太田市指定史跡「永田勘衛門(円水)の墓」。説明板です。
甲斐の国(山梨県)出身の永田家は、鉱山開発に携わった技術者。永田茂衛門・勘衛門 父子が水戸にやってきたのは、初代水戸藩主・徳川頼房の時代(1640年)なんだと。鉱山開発の話はさかのぼること、武田氏の時代(戦国時代)のようです。
水戸領内の金山の開掘・利水・土木事業などに尽力し、水戸藩産業の発展に貢献した。勘衛門はその功により二代藩主光圀公から「円水の号」を与えられ、久昌寺墓地内に墓所を与えられた。しかし、父・茂衛門は既に亡くなっていたようです😥。
当時、久昌寺の敷地(墓所)だった、ここに墓があるのねと😶。
父子二代にわたる事業のなかで、注目される完成事業。
【上水道の建設】
・笠原水道
・山寺水道
【用水】
・那珂川の小場江堰
・久慈川の辰ノ口江堰
・久慈川の岩崎江堰
田に水が行き届き、川沿いの美田となったそうな。先人の知恵ですな~😆。
甲斐の国で鉱山開発をしてきた一家は、時代を経て、水戸藩で金山を掘ったり、堰を建設していた。光圀公からは「円水」という水に関係していそうな号を与えられ、水のエンジニアみたいな感じ。
参考:常陸太田市観光物産協会>観光情報>観光スポット>歴史>永田円水の墓
っで、ここまで来たら、お墓を拝見し、偉業を振り返り偲び、撤収しようとしたのですが...🤔。分からなかった😆✋。そんなこともあるさ。
目立っていた「伝人話」石碑。
帰宅後、よーく調べてみると、ああ!!そこか!そこだったのか!!って感じ...。これなら、すれ違って挨拶した御仁に聞いてみれば良かった😭。
「伝人話」石碑の大きな文字しか気にしていなかったのですが、よーく最後まで見ると「永田」さんです。...せめて、これに気付けば、もっと周囲を注意深く観察出来たはずなのに...残念。
永田氏の偉業について、Wikipediaの方にだいぶ詳細に記されていたので、興味があれば読んでみると良いです。
寄り道 源氏川でカワセミ
寄り道というか、源氏川沿いを走っていたら、カワセミを見かけたので、撮影出来ないかと、立ち止まりました😅。カワセミの絵が源氏川沿いの看板や、JR常陸太田駅の看板に描かれている程であり、遭遇率は高い方だと思います。
緑に輝く背中。...うーん😯...この装備では撮影は難しいなぁ。せめて200mmレンズぐらいは欲しい。
しかし、これはサイクリングなので、交換レンズまで持ちたくない。そもそも、一眼レフカメラという選択が間違っていると思うが、手元で暇を持て余しているカメラがこれしかないのです。...とはいえ、メインで使っていたD7100は故障中だし...実質的にメインであり最後の砦(カメラ)といっても過言ではない😭。
後記
旧久昌寺跡には、お寺の名残は一切無いようで、墓地ぐらいですかね。駐車場はなく、まぁ停められるスペースはあるにはあるけど、停めないのが普通な気がしました。山の寺に立ち寄り、車を置かせてもらい、数百メートル程歩いて行くのが良さそうだなぁって思いました😅。
さて、この後、移転し、現存する「久昌寺」に向かうはずが、忘却し「水戸徳川家墓所」に行っちゃいます。
おわり。
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