クロスバイクで日立市「助川城跡公園」に行ってみたら歴史たっぷりだった

2020/12/12

サイクリング 写真

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こんばんは。
tanayasu99(たなやす)です。

相変わらず、寒さに嫌気がさして、外に出たがらないです😣。

日立市へクロスバイクで行ってみて、面白そうな所は無いかなぁってGoogleマップを見ていました。

いろいろあった中で、特に気になったのが「助川城跡公園」(助川海防城跡)だったので、クロスバイクで行ってみたというお話です😁。たまにヒルクライムするか...ぐらいの心つもりでしたが...。
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日立市「助川城跡公園」(助川海防城跡)とは

水戸藩主・徳川斉昭公が、「海を船で進撃してこられたら、俺たちってヤバくね?」「物見台とか、迎撃ミサイルとかあった方が良くね?」って側近に話したのかは分かりませんが、海防の重要性を説き、この「助川城」を築いたそうです。

時代背景としては黒船・ペリーさん来航があって、それまで広大な海原によりおおむね守られていたかのように見えた常識、鎖国政策が覆されつつあった時代...そんな辺りかなぁって思ったのですが、築城に着工したのであろう年は天保7年(1836年)...つまり黒船来航(1853年)の17年前には既に「海防」の意識があったということか。

鎖国とはいっても、中国・オランダとは貿易してたみたいだし、ペリー来航はるか以前から「日本にも黒船来ちゃうかもよ?」みたいな情報は流れていたのかも。鎖国っていう言葉も面白くて、江戸幕末に「開国」という言葉がうまれた時期に、開国前の状態を「鎖国」と呼ぶようになったんだとか。

公園の入口(階段)

Googleストリートビューでは限界を感じ、行ってみないと分からないレベルだなぁっと疑ったのが、公園の出入口でした。っというのも、公園の出入口が3ヶ所ある内、1ヶ所が近年新しくなったような周辺施設のそばにあるようでした。

さらに登りのきつそうな先にある出入口は、ストリートビュー化されていないが、公園内からの写真で遠目に写る出入口と航空写真を見る限りでは階段はなさそうな感じだと思っていた。

これが、ここの定番的であろう看板と階段付随の出入口。これは、ストリートビューで確認していたとおり。
助川城跡公園
赤くなっているのはドウタンツツジでしょうか。

「助川海防城跡」の碑
助川城跡公園

「助川城跡公園」の説明板。独特な模様が刻み込まれいて、特にマップの方は見にくいです。...ただの風化だと思いますけど。
助川城跡公園
ちなみに、白く潰された部分には、ハイキングコースの出入口に関することが記されているようでした。昔は、この公園内にコース起点があったのだろう

これぐらいの階段なら...と思わなくもないですが、ストリートビューでは確認しきれなかった別の出入口へ向かいます。

公園の入口(急坂の先)

なかなかの坂道😖。今回は国道6号から山側道路、助川台を走ってきているので...😵。
助川城跡公園 助川城跡公園 助川城跡公園

確かな手応えを感じつつ登り切る🎊。意外と余力はあるもんです。
助川城跡公園

ちなみに、舗装路ではありますが、公園駐車場はここにはなく、公園管理車両か地元民家のための道路なのだろうと思いました。

海が見えるのです

まだ見応えのあるモミジ😲。
助川城跡公園

桜...ですかね?今の時期では分かり難いですが、この公園には桜がけっこう植えられています🌸
助川城跡公園

眺めが良いですね~😀。シビックボールが見えます(そんな名前ではなかったと思うが)。
助川城跡公園
日立市を象徴するといっても過言ではない「シビックセンター」...文化会館のような建物。この時期はイルミネーションが華やかです。

公園内には遊具あり、トイレもあります。
助川城跡公園
芝生っぽいですが、所々大きめな石がひょっこりむきだしになっていて、気を付けて転ばないようにしないとなぁって思ったり。

茨城百景が望む先は見渡し最高

「茨城百景 助川城址と 海と山の公園巡り」の碑。...巡りなの?そういうシリーズがあるの?とか思ったり。
助川城跡公園_茨城百景 助川城址と 海と山の公園巡り
なんとなく民家の写り込みを意識してしまい、こういうアングルになっただけです。

「養正館(ようせいかん)跡」の説明板
助川城跡公園_養正館(ようせいかん)跡
斉昭公から海防惣司という重職に任命され、海防城を築き、この地に移住した家老・山野辺義観(やまのべ よしみ)が開設した、家臣の子弟教育の施設とのこと。

館名は、中国の古典に由来し、正道を修め養う意味。

なんと、水戸の藩校として名を馳せる「弘道館」に先駆けたものだったそうな。

この説明板のマップから、これから見るべき石碑などを把握した。っていうか、Googleマップで見ていたはずなのに、現地でその広さに驚く。よく整備しているもんだなぁと...。

「養正館跡」の碑
助川城跡公園_養正館

「日立市指定 文化財史跡 助川海防城跡」の碑
助川城跡公園_日立市指定 文化財史跡 助川海防城跡
昭和40年のわりには、やけに真新しいなぁって思いましたが、指定日でした😅。建設日は刻まれていなかったが、たぶん養正館の碑と同じかな。

鳥好きなら一度は来るべきでは?

「鳩石」の説明板。さきほどの山野辺義観氏(助川海防城 初代城主)が、可愛がっていた鳩の死をいたんで、庭にあった石に鳩の姿を自分で彫り刻んだとのこと。
助川城跡公園_鳩石
マジか...それはそれですげえな。もう既に、この写真↑からでも、どこに刻まれているか分かりますが、どうでしょうか。

「鳩石」に迫ります。
助川城跡公園_鳩石 助川城跡公園_鳩石
...このキャンバス(大きい石)に、この「鳩」彫り刻み...と思ってはいけない。この石の表面すべてに、初代城主と鳩の他愛ない日常風景が、絵巻図の如く、描かれているのかもしれない。

階段の出入口ですね。
助川城跡公園

車で行きたいなら

周囲を観察しながら、ゆっくり歩いてきた、舗装された遊歩道を振り返る。
助川城跡公園

この先・直進は、契約者駐車場。特に抜けている道ではない
助川城跡公園

「助川城跡公園」の標柱。ここも公園の出入口。散策を続けるには、左側だな。
助川城跡公園
この園内から、「助川山」「高鈴山」へは、行けません!迂回願います』とのこと。なるほどね、序盤で確認した説明板の白塗りつぶしのフラグはここで回収な訳か。そして、その道だったであろう門も確認出来るはず。

ちょっと出入口から道路へ移動して、このアングル。「P 駐車場」...このデザインの看板は施設(ホーム)っぽいのですが、ハッキリした表記がないので、公園の駐車場だと都合よく解釈しておこうかと。
助川城跡公園

廃止されしハイキングコース出入口?

鬼滅の刃に、こういう髪色したキャラ居たような気がする。
助川城跡公園

少し引いてみると、こんな感じ。ここも出入口ですが、固く閉ざされているだけでなく、その先は草木ぼうぼう。
助川城跡公園
右奥に見えてきましたね...閉鎖されたハイキングコースであろう出入口が。

古き門...という程古い感じはしませんが、なかなか古風な感じ。
助川城跡公園
ここから「助川山」「高鈴山」へハイキングしていた時代があったんですかねー🤔。

尊王攘夷の碑

自転車を担いで、階段を超えた先には「尊王攘夷」の碑。「君主を尊び、外敵をうちはらおうとする思想」が尊王攘夷。天皇を尊び、野蛮な外国人を打ちとれみたいな感じですかね。野蛮ではない外国人は対象外...そう捉えるのは難しそう。
助川城跡公園_尊王攘夷

...刻まれている文字が、漢文のようで、ちょっと読むに読めず。
助川城跡公園
天保7年に助川海防城を竣工した...とか刻まれている...以上。

後ろにも刻まれているような感じはしたけど...自然体ですかね。
助川城跡公園_尊王攘夷

番所跡と表門の標柱

「日立市指定史跡第1号 遠見番所跡」の標柱
助川城跡公園_遠見番所跡

「茨城県指定史跡第22号 助川海防城跡 表門 礎石跡」の標柱。礎石=そせき、建造物の基礎となる石のこと。
助川城跡公園_表門 礎石跡 助川城跡公園_表門 礎石跡
昔はこんな風に門や建物がありました~みたいな「AR」映像?を展開したら、面白そうだけどなぁ。

さきほどから写り込んでいる木は、梅っぽいですかね。なかには、伐採された株が残っています。
助川城跡公園_梅 助川城跡公園_梅

ここぞ「助川城跡の中心」を感じるポイント

「史跡 助川海防城跡 指定 茨城県教育委員会」の碑。ここね...県指定と市指定かぶっているせいか、2本ありましたね😅。そのおかげか、よく整備されている訳ですが。
助川城跡公園

「助川海防城跡」の説明板。このお城は、江戸幕末(1864年)に起きた水戸藩の内乱によって焼失してしまったらしい。
助川城跡公園
たぶん、天狗党の乱ですかね。筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱のこと。栃木県の栃木市や茨城県の那珂湊あたりも戦火というか、けっこう酷い感じだったみたい。

こういう石垣や、階段があるだけでも遺構らしさがあって良いと思う。
助川城跡公園

友好都市の標柱と本丸館跡の標柱

「日立市・山辺町友好都市提携記念」の標柱
助川城跡公園_日立市・山辺町友好都市提携記念

「キャラボク(山辺町の木)」とも記されています。キャラボク=伽羅木、イチイ科の常緑針葉樹、赤い実を付けるそうです。
助川城跡公園_キャラボク(山辺町の木)

山辺町?(やまのべ まち)...全然ピンと来なくて調べてみたら、どうやら初代助川海防城主・山野辺義観氏の出身地が現「山形県東村山郡山辺町」であり、その結び付きを縁として、歴史研究グループなどの交流が深まり、友好都市締結に至ったみたいです。

標柱にあるとおり、「山辺町の木」として制定されています。緑を保ち、耐寒・耐虫性があり、生命力の強さが魅力的な木なんだとか。
参考:山辺町>組織で探す>総務課>町の概要

最近は、新型コロナにより、満足な交流活動も出来なかったのでしょう、山辺町から日立市へ「新型コロナウイルスによる困難な状況を共に乗り越えていきましょう!」というメッセージとともに、"さくらんぼ"のプレゼントがあったんだとか。素晴らしい😁。

「本丸館跡」の標柱。城跡ではなく、館跡...だから時々、城主では無く、館主という記しされ方を見かけるのか。。。
助川城跡公園

江戸幕末から明治以降も駆け抜け続けた人の歌碑

「田中光顕」の歌碑。全部は分からないので、近代の科学「インターネット」を駆使して、内容を把握しました😅。
助川城跡公園
助川城壊古 勲一等光顕
そそりたちし城はあらねどきつきつる
人の功はとはに残りて

って刻まれていたようです。

(そそり立つ城はないけど、築いた人の功は、永遠に残る)って感じですかね。ちゃんと残っているようですよ。

ちなみに、田中光顕(たなか みつあき)氏は、土佐藩家老深尾氏家臣だったのとのこと。ここで土佐藩?坂本龍馬好きとしては、ちょっとテンション上がる😁。

家老の...とあったので上士(藩側の人間)かと思ったけど、武市半平太によって結成された土佐勤王党に参加しているあたりを考えると、今後の日本を憂い、動いたひとりなのだろうと思う。

同党壊滅後は長州藩士・高杉晋作の弟子となるが、第一次長州征伐後にやらかしてしまい大和十津川へ逃れる。

薩長同盟の成立に貢献。坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺された事件後、重症の中岡から経緯を聞く。中岡の死後は、陸援隊の副隊長として、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争で活躍した。

時代は明治となり、新政府の要職につき活躍する。収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退した。

政界引退後は、高杉晋作、武市半平太など、攘夷志士たちの遺墨(筆跡)や遺品を収集した。同氏が建設に関わったという茨城県大洗町「幕末と明治の博物館」、旧多摩聖蹟記念館、高知県佐川の青山文庫にそれぞれ寄贈された。

とまぁ、なかなか動きのある人だなぁ~ってwikiを見ていて思いました。時代は江戸幕末から明治、大正、昭和と移りゆく中で...え?昭和??なにこの人?!

昭和天皇からの男子出生を危ぶみ、側室をもうけるべきだと、選定基準などを勝手にすすめ、天皇側近と対立してしまう。とまぁ、この人、なかなかどころか、年老いてもアグレッシブすぎる。

昭和14年(1939年)、静岡県の別荘にて、95歳で没したようです。

...ぶっちゃけ、助川城との関係を知りたかっただけなのですが、経歴の後半に翻弄されてしまいました🤣。そりゃ、幕末~明治からの生き証人って言われるわ。

...ぁぁ「お~い!竜馬」(漫画)に居たなぁ!田中光顕(みつあき)というより、田中顕助(けんすけ)の印象が強い。あの人だ~へ~、なんか独りで勝手に感動した😂。(大河ドラマ「龍馬伝」の方は思い出せず🤔)

...「天翔の竜馬」という歴史if漫画に出てくる顕助さんの印象が悪すぎて、田中違いだよなぁって、実はずっと思っていた🤣(なんという勘違い)。

土佐(高知県)の人が、はるばる訪れていたんでしょうね。これ以上の詳しい内容は「幕末と明治の博物館」に行った方が良さそう。

現地マップにも載っていない石碑

さて、もう全部の碑や説明板に立ち寄ることが出来ただろうと、撮影したマップ写真を見ながら、満足げに城という名の山を下りることにした😉。

が、しかし、下りていく途中で、見覚えがあるような無いような石碑を発見しました...「尊王攘夷」の碑?いや違う。これは...未確認の石碑...しかもマップに載っていないのですが、位置的には尊王攘夷の碑より、東にあります。

「留魂碑」..."戦禍及び慰霊碑"のようです。上部の文字は"篆書体"なのかなぁ...既に分からない。
助川城跡公園 助川城跡公園

うーん、漢文アレルギーが...苦しい😵。
助川城跡公園
最上右衛門大夫...山野辺義観氏のことらしい。山形出身だし、「最上」というのも、ざっくり納得。...田中光顕の名も刻まれている...助川城に立ち寄った事かな?...ネットではあまりヒットしないし、真面目に見てくれば良かったかなぁって今に思う😥。

こんな感じで、「助川城跡公園」を堪能したのでした。(現地散策の時間より、後日調べている時間が圧倒的に多かったですが😅。)

番外編:助川海防城水道

「助川城跡公園」に到着する前...別の山に登っていた頃の話。

助川城址通りの手前で、山の方へ(西光寺付近)登り始め、なんか楽しくなってしまい登り続けた先で見つけたもの。

「助川海防城水道 化粧水・金水・銀水」の説明板
助川海防城水道 助川海防城水道

日立地方で水道施設が造られたのは、助川海防城の水道が初めてだったとのこと。城主(鳩の人)山野辺義観氏が、「山の上に城を築いたけど、岩盤固くて井戸水とれないし、飲み水の確保が難しくね?ヤバくね?」って家臣達に話したのかは分かりませんが、「上水道」の必要性を痛感し、水路を引くことに尽力したようです。

ちなみに、説明板の地図を見て、自転車でも山伝いに行けるんじゃね?って思ったのですが、ハイキングコース出入口だったので、山を下りました😥。
助川海防城水道 助川海防城水道

後記

公園から少し離れた所・小学校の門前にも「助川城址碑」と説明板があるのですが、そちらは立ち寄らず。既述したとおり、思ったより公園が広かったのに、のんびり散策してしまったので割愛な感じ😅。

この公園、紅葉もよく、梅、桜も見応えがあり、期待できそうな所ですね😁。そして、歴史を振り返り、いろいろ想うことのできる良き公園でした。

国道6号から山側道路への登りがツラい、どうツラいのか記そうと思ったけどやめました。理由は、Stravaにアップした走行データの処理が正しく行われなかったことと、助川海防城跡の散策内容が多くなったから。前者は、GPS精度が悪かったみたい...どうしたもんか。

日立市内の国道6号は、車道を走ると車を詰まらせるし、歩道は狭いし...であんまり走りたくないという、食わず嫌いならぬ走らず嫌い。全部走り難い訳では無いけど、あんまりね...。

おわり。
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どうも、水戸近辺在住のtanayasu99(たなやす)です。ブログタイトルを変えて再出発な2024年となります。ブログの内容をクロスバイクやサイクリング、その他雑記、気になった商品の備忘録で続けていこうかと頑張ってみます。よろしくお願いします。

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