チャリを担ぐtanayasu99(たなやす)です。
前回の記事では、久慈川サイクリングコースを起点から終点まで、気になった所を立ち寄りながらサイクリングしてみました👍。
久慈川サイクリングコース(日立市・東海村・常陸太田)をクロスバイクで走ってみたというお話。新落合橋や八幡橋、新川戸橋の通行止めはありましたが、堤防補強工事が完了している区間もあり、走行はだいぶ改善されました。
今回の記事は、その続き、さらに山田川上流、時々山側を走ってみた(歩いてみた)というお話🚴。適当に走りながら、説明板を見かけては立ち寄っていました😅。
山田川の大越堰
久慈川サイクリングコース終点・常井橋(ときい)付近から、山田川上流に向けて川沿いを走ります😏。「ときい」って読めないですよね😅。常盤神社とかあるから、まったく想像できない訳ではありませんが。
山田川左岸堤防。
たしか、右岸も道はあったはず。しばらく、そっちは走ってなかったし、走って来れば良かったな😅。
動画を探したら残っていたので確認してみました👀。前回走ったのは2019年で、こんな感じでしたね😆。
木橋な「下河原橋」を渡り、対岸へ行きます。
辿り着いた先は「大越堰」です。暑い日は避暑地として、おススメです👍。快走出来るような道が突き抜けていないというデメリットがあります😣。
以前、説明板とか見てるし、見なくて良いかなぁ~😐って思いましたが、見慣れぬ看板がある事や、降りやすく草刈りされていたので見て行くことにしました😅。
降りた先に水路があるのでご注意を⚠。
「大越堰と石門の潭」(いわとのふち)。それと「猫渕横穴古墳」😲。この下の看板は初めて見ましたね。
大越堰と石門の潭 |
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江戸時代の山田川は、度々氾濫を起こす暴れ川であった。その後改修を重ね、昭和25年に現在の大越堰が完成した。 今でも下流域30ヘクタール余りの美田を潤す豊かな水を供給している。 また、上流の猫渕は、説によると奈良時代の書、『常陸国風土記』の中で「石門潭」と記された場所ではないかと言われている。 古代の人々が盛夏の涼を求めてひとときを楽しんだ情景が偲ばれる。 |
矢印の方向ね🤔。
とありえず、大越堰を堪能する。
そういえば、「大越堰用水樋管」の横から、なんか道があったような...。
大越堰から猫渕横穴古墳への道のり
古墳の案内にある矢印を解釈すると、これを行けと?🤣。まったく予定していませんでしたが、気になったのでチャリを押しながら散策してみました😀。あらぶる竹林かw。こんなに竹があっちこっちに傾いている中を歩くのは、なかなか無いけど😥。最悪、スライドしてきた竹にやられそうな気がする😰。
「猫渕横穴古墳→」とのこと。ギリギリ道らしきものが見える👀。
辿ってきた道を振り返ると、こんな感じ👇。
ロープが張られています。ご安全に👷♂️。
「く、クロスバイク乗れていないしチャリを押してまで来るんじゃなかった」とは、まだ思っていない。
到着・猫渕横穴古墳
看板が見せたがっていた(?)古墳はこれだったのか。Googleマップに投稿されていた写真で見たことあるやつだと、思い出した💡。この手書き感のある看板は、ここ数年のものだと思う。
「村指定史跡 猫渕横穴古墳」説明板。
...まてまてまて、史跡の中に説明板が置かれているという状況(笑)。史跡を損壊させている訳でも無ければ、景観がどうこうでもないので、良いのか😅。
村指定遺跡 猫渕横穴古墳 |
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古墳時代末期7世紀頃の横穴古墳群10墓のうち人物壁画のある古墳は全長1.7メートル、玄室長3.3メートル、高さ1.8メートル、奥行巾2.4メートル、両手に剣を持つ上半身の人物像が描かれ頭髪アゴヒゲなどまるで仁王像のようである。 地元では「弘法大師瓜猫不動」とよんでいる。 所在地 金砂郷村高柿御所平 |
「村指定」というのは、常陸太田市に合併されるより更に前にあった町制施行前の「金砂郷村」っぽいです。町制施行により「久慈郡金砂郷町」し、その後常陸太田市に編入し、今では「常陸太田市金砂郷地区」なんだとか(実質町名としては消滅)。
少し離れた所にも、横穴があります👀。さきほどの説明板には「古墳群」とありましたからね。
あちらには散策路などあるようには見えませんでした。
そういえば、「石門の潭」(いわとのふち)って、この辺り一帯なのだろうかと。
古墳の先に見えたのは階段ルート😕。
来た道を辿って戻るのは面白くないし、いっそ担いで行ってみるか?
登っている時、人んちに繋がっているのではないかという不安しかなかった😅。
畑と、ほぼほぼ人んちでした🤣。畑作業している人と目が遭い、お互いに軽く会釈するという。チャリを担いで現れたのだから、不思議な光景だったに違いない😓。
「猫渕横穴古墳と壁画」説明板。
猫渕横穴古墳と壁画 |
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横穴は、字御所平地内の山田川崖地にあり、現在までに11基が確認されている。これまでの調査によれば、古代の久慈郡 衛の官人が埋葬された墓跡と考えられている。 横穴の一つに乱れた頭髪の人物壁画が描かれているが、怒りに満ちた形相は、鬼の顔であり、古代人は、死者の霊をこのような形で表現したのではないかと言われている。7世紀後半に造られたと推測され、市の文化財に指定されている。 |
道なりに舗装路を進むと、これまたストリートビューで見覚えのある所に出た。
駐車場は...地元の人に聞かないと分からないような気がします😅。
さて、山田川に架かる沈下橋をチラ見しつつ、撤収しようかと考え始めました🐒。
清水の石仏群と馬力神
どこかで、山田川沿いに戻りたいような気がした頃、また説明板を発見👀。「石仏群(清水)」説明板。
石仏群(清水) (子安観音仏・地蔵仏) |
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江戸時代、農民生活の中から生まれた如意輪観音信仰は、十九夜講などを通じて盛んになった。 「十九夜講」とは、母子の健康と安産・子育てを願い「供養」と称して実践する女性の行事である。ほかにも「二十三夜講」・「二十六夜講」などがある。 昔から「ハガイタサン」と呼ばれ、顔に片手をあてている「如意輪観音仏」と、おなかに子供を抱いている「子安観音仏」に、「地蔵仏」を加えた3体の石仏が並んで設置されているものが多い。 |
「馬力神(清水)」説明板。
馬力神(清水) |
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江戸時代、馬は農家において労働力の担い手として大きな役割を果たし尊重された。 馬の安全を祈って馬頭観音の石塔を建てる風習が起こった。 その後明治になると神仏分離の風潮が強まり馬頭観音から馬力神へと変化していった。 |
昔は、馬が農業に欠かせない存在だったんだなぁ~って思えました。
ここらへんの道や、農道、あぜ道を馬が闊歩していた時代もあったんだろうなぁとかね。
欠ノ下の馬力神
山田川が見える所へ行こう!と向かった先で、またもや説明板を発見👀。大木の根かな?手前にある石かな?
「馬力神(欠ノ下)」(かけのした)説明板。石の方でした😅。内容は、馬力神(清水)とまったく同じでした。
馬力神(欠ノ下) |
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江戸時代、馬は農家において労働力の担い手として大きな役割を果たし尊重された。 馬の安全を祈って馬頭観音の石塔を建てる風習が起こった。 その後明治になると神仏分離の風潮が強まり馬頭観音から馬力神へと変化していった。 |
先ほどからの括弧書きは、昔の地名(小字名)なのかな?
なかなか年季が入った様子である。
なんかね、この大木の切り株が気になり始めてしまい、ストリートビューで過去を見たらどうなる?って思い、確認してみる事にしました🔍。
たいして遡れないし、まさかあったりはしないだろうと思っていました。
!?ストリートビューの撮影日は2011年11月という事ですが、説明板すらないですね😅。逆光で大木があるようなないような。
ちょっと離れて見比べてみるか🤔。
?!ありますね😲。倒木の恐れがあって切ったのかなぁ。
っという些細な変化でした🙄。(微妙に納豆工房の看板が変わっていましたねw。)
その後、素直に山田川沿いは走らず、山岳ルートを走ってみました😂。
「六地蔵」だけど地蔵7体
アップダウンを走りつつ、なにやら説明板を発見👀。7体の地蔵🙏。
中央が「振分地蔵」、他は金剛願地蔵・金剛宝地蔵・金剛悲地蔵・金剛幢地蔵・放光生地蔵・預天賀地蔵だという。(「繁」(しげ)って木橋の名称にもあったけど、小字名なのかな。)
「六地蔵」説明板。
六地蔵 水府村東連地 繁(しげ) |
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六地蔵とは、六道を輪廻転生する衆生の苦患を救うというと地蔵のことで、奉納額によると、振分地蔵を中央にはさんで、金剛願地蔵・金剛願地蔵・金剛宝地蔵・金剛悲地蔵・金剛幢地蔵・放光生地蔵・預天賀地蔵のことであるという。 高さ約60~70cmの簡素な感じのする石像である。 昭和のはじめごろ、地元の喜捨によって、元の土地に堂が建てられ、六地蔵も復帰した。 終戦ごろまでは、安産のご利益があるといわれて、婦人たちの間にかなり信仰されていた。 |
※苦患:くげん。苦しみ、なやみ。
※喜捨:きしゃ。寺社や貧乏な人に施し物を、喜んですること。
ここにも。右端は子供を抱えているようにも見える...子安地蔵さんかな😏。
「猿喰のケヤキ」を見てからは、大きな木をより一層見たがるようになりましてね。
これはモミジとイチョウっぽい気がしました。
ちょっと暑いな。
「不動尊(お不動さま)←」という案内板があったので、行ってみることにしました🚴。
崖の合間の不動尊
凄い所にありました。この写真で分かりますかね?「不動尊(お不動さま)」説明板。
不動尊(お不動さま) |
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本尊は、全身火災につつまれ、右手に降魔の剣、左手に羂索という鐶(鋼)を持ち、忿怒の形相をした石像の不動明王像で、悪魔や煩悩を降伏させるといわれている。創作年代は不詳である。 修験者の守り本尊と仰がれ、修練に格好な幽寂であるこの地に祭祀されている。 祭礼は、旧暦6月27日の宵祭りで、滝名子班内の進行が続いている。 |
※祭祀の「祀」は、「ネ」に「己」。
4~5段ぐらいの階段を昇って行くと...
あえてそこに造るとは。厳格さを感じるような気がした😑。
崩れたりしないのでしょうか。...意外と3代目とか幾代か建て替えられていたりするのかな。
この後、山田川に出て、沈下橋を堪能しながら、南下します。
後記
今回のようにサイクリング先でチャリに乗れず、「押して歩く」「担いで歩く」という動作を強いられる場面は、進行する上でやむを得ず、まぁまぁあります😅。幸いなことに、毎回人とすれ違う事もなく終える訳だが、人云々抜きにしても、あることを考える。輪行袋にチャリ突っ込んで、持ち歩いた方が良くね?...である。はたから見れば、大きな荷物で大変だねーっていうレベルにはなると思う。見られ方は軽くなるし、階段の長い神社にだって立ち寄れるし、ハイキングコースを散策する事も...いや体力的に車で行って、自転車抜きで散策すべきか😅。
次回は、二孝女物語の舞台にもなっている「青蓮寺」や、山田川の木橋、また久慈川サイクリングコース終点など、立ち寄ったりしたというお話の予定です🚴。
おわり。
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