こんばんは。tanayasu99(たなやす)です。
久慈川サイクリングコース終点付近スポット巡り2026年第4弾、常陸太田市東連地町の史跡8ヶ所+αを巡っていきます。今回も1日で巡った話になりますが、記事としては3つに分けて展開していきます。 ということで、常陸太田市東連地町の史跡や神社とかへ、クロスバイクで立ち寄ってみたというお話パート2です🚴。
お姫溜
絶対にコバエスポット!もう!間違いなく!...なんでこの時期に散策しているかなぁ。夏場絶対にオススメしませんw。コバエスポットが仕上がりすぎ。前回で学んだ。こういう場所には...って、もう到着前からヤバかったw。ふもとからの登り坂で速度ダウンした時点で取りつかれました。

画像にはコバエの雰囲気ないですね。撮影テクニックが無くて良かったかもしれません。

やや登りつつ、解説板と渇水した溜池跡地を拝見。画像にはコバエの雰囲気が一切ないなー。あの不快感が伝わらなくて残念だ。

「お姫溜」の解説板。

| お姫溜 |
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| この地を姫小谷津といい、深い溜池があった。 昔、ここから北に1キロメートルの位置にあった和田小屋城の姫が、敵に攻められて身を投げたという伝説がある。 永享7年(1435年)佐竹義憲の家臣、小野崎越前守が戦功を挙げたという記録があり、その際に起きた出来事であろうか。 東連地町会 |
コバエ群雄割拠地帯に身を投じていたんだが、命あるだけありがたい...かもしれない。
和田小屋城は隣山ぐらいのところにあったらしい山城。現地に標柱や解説板はないようだが、城・館としては情報が多数ある。
永享7年(1435年)...時期的には山入の乱初期らしい。和田城に籠る山入一族を小野崎氏が攻めたみたい。なお、周囲には和田城がいくつかあり、正式な情報には辿り着けずというか、判断できず。
分からなかった樫の巨木
事前調査の段階から「現地に行っても分からないだろう」と諦めていたところ。どれもまぁまぁ大きいから、パッと見て分からないですw。あーたぶんあれかなー...みたいな。
十郎山
お姫溜から再スタートを切るが、坂道が続いていて、コバエを振り切るほどの加速が出来ず...「くそがあぁ!!」って内心思ったり。。。コバエどもは、陽の光が得意ではないようなので、初めて炎天下にありがたみを感じた。
十郎山の案内板付近からの景色がとても良かった。コバエも数匹だけだったし。

既に解説板らしきモノが見えている。が、しかし、コバエどもが潜伏しているであろう事が気分を下がらせていた。

「十郎山」の解説板。ヤバイ...コバエという伏兵が襲い掛かってきて、読んでいる余裕がないw。

| 十郎山 |
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| 平安時代中期、猿多十郎というものが建てた山城跡とみられる。 ここには、人工的に削った斜面や武者走りといった敵からの攻撃を防ぐ仕掛けが残っており、周辺には、御城や和田小屋・飼農場など城跡にまつわる地名が良く残っている。 おそらく普段は現在の集落付近に住み、有事に山城に籠ったのだろう。 東連地町会 |
まぁまぁブレずに撮影できたと思うw。お姫溜の地よりコバエの数が少なかったのが良かった👍。...不快感は拭えなかったが。
「猿田」ではなく「猿多」と記されていたが、誤記か昔の名前なのかは分からなかった。
有事の備えは重要ですね。うちも地下通路と地下施設ぐらいは欲しいです🤣。
嵯峨神社元宮跡 (現:熊野神社)
山沿いルートで少しのアップダウンを走り抜けて「嵯峨神社元宮跡」の地に到着。手前の石碑は「馬力神」っぽい。この茂り具合は...ここもコバエスポットか😫。
石碑と元宮。コバエがたかりはじめた。

高台からの美田な景色。

「嵯峨神社元宮」の解説板。散策マップには「跡」って記されていたんだけど、現地は「跡」無し。記載のとおり、現在は熊野神社とのこと。

| 嵯峨神社元宮 |
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| 天喜4年(1056年)、源頼義が安倍頼時征伐のため、奥州に赴く途中この地に宿営し、戦勝を祈願して嵯峨神社を建立したとされる。 治承4年(1180年)、源頼朝が佐竹秀義を攻めたとき、防戦のため、火を放たれ焼失したが、今も礎石の一部を残し、往時をしのばせる。 元禄9年(1696年)に徳川光圀により今の面影山に遷宮され、ここには、熊野神社を祀っている。 東連地町会 |
面影山とは...過去に山田八景の予習記事で触れていました。平安時代、戦時中の兄上に合流するため向かっていた弟がこの山で一休みしながら、兄の面影を偲び安否を気遣ったことから、面影山というようになったみたいです。
コバエを振り切って次のナンバリング・スポット「嵯峨神社」もとい面影山へ。
東連地公会堂
次のスポット「嵯峨神社」へ向かう途中、「東連地町散策マップ」の看板が設置されている「東連地公会堂」にて。
①~⑧のナンバリング・スポットだけでなく、ノンナンバリング・スポットも見応えがあったりする。前回記事の「田中愿蔵(げんぞう)生誕の地」はナンバリングされていないけど解説板があったとか。

そういえばコレはどこかでみたような...。ノンナンバリング・スポット「圃場」で見かけた樹木です。

たぶん、イヌツゲ(犬黄楊)とかツゲといって、庭木や生垣としてよく使われるモチノキ科の常緑低木っぽい。

生垣だけでなく、トピアリーとしても重宝されているみたい。あー、なるほね~って感じ。

嵯峨神社
東連地公会堂から登坂をこなしつつ、「嵯峨神社」への入り口に立つ。
さらに少し登って、「嵯峨神社」へ到着。はいはい、コバエスポットですねー楽しいですねー。...くそがあぁ!!

「嵯峨神社」の解説板。歴史が載っているけど、「佐竹の武将 千葉忠常」は違うと思う。

| 嵯峨神社 |
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| 所在地 常陸太田市東連地町621番地 祭神 八千戈神(やちほこのかみ)(大己貴命(おおなむちのみこと)の別称) 天喜5年(1057年)陸奥守鎮守府将軍源頼義が阿倍貞任・宗任兄弟征討のため奥州へおもむく途中、この地に露営をし、戦勝を祈願して嵯峨神社を大石沢山に創建したと伝えられている。その後、百余年を経た治承4年(1180年)右兵衛佐源頼朝が、西金砂山城に籠る佐竹秀義を攻めた時、佐竹の武将千葉忠常が前線防備のため、沿道の人家に火を放って焼いた。その余炎をうけ、社は礎を残すのみとなったという。 信仰厚き地元民が社を再建し、祭祀を続けてきたが、元禄9年(1696年)、徳川光圀が、源氏ゆかりの地、面影山に遷座して、東連地・芦間の鎮守とした。 |
ざっくりこんな感じ。
①1057年、源頼義が奥州征伐へ向かう途中、ここで戦勝祈願
②1180年、源頼朝が西金砂山城の合戦(佐竹征伐)で、ここら辺が焼かれた
③1696年、徳川光圀が嵯峨神社をうつした
②1180年の部分ですね。「佐竹の武将 千葉忠常」について。
※千葉忠常(=平忠常の事であれば)、平安時代中期の武将で、坂東平氏(後の千葉氏・上総氏の祖)です。「平忠常の乱(1028年〜1031年)」を起こして源頼信に降伏した。
平忠常は、佐竹氏が常陸国で勢力を伸ばすよりも150年以上前の人物であるため、佐竹秀義の部将になることは絶対に不可能。
治承4年の金砂城の戦いで、佐竹秀義と戦った源頼朝の軍勢には、平忠常の子孫である「千葉常胤(ちばつねたね)」や「上総広常(かずさひろつね)」が主力として加わっていた。つまり、千葉一族は佐竹氏の味方(部将)ではなく、むしろ頼朝側として佐竹氏を攻めた対立関係にあった。
後記
もはやコバエスポット巡りじゃねぇーか...って思うぐらい不快で苦しいサイクリング🚴。コバエシーズンの雑木林や森林密度の高い神社には立ち入らない方が良いです。おとなしく、川沿いをサイクリングした方が良い。
さて、コバエスポ...違う。東連地町散策スポット残り4ケ所+α、パート3(最終話)へ続きます🚴。
おわり。

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